114 もう1人の天皇、蘇我氏一族であった品治

2024年06月08日 10:04

品治の死により盤石になった文武政権

 文武執権の5年目、大宝元年(701)正月元旦、太極殿で大々的な朝貢の儀を行なっている。おそらくこれが実質的な文武の即位式ではなかったか。品治はその前年文武4年の夏に死亡した。ライバルはついに消えたのだ。書紀の舒明7年と皇極3年のくだりに「一茎ニ花」が登場する。これについて蘇我臣が栄える印であると豊浦の大臣は言っている。事実、当時は蘇我氏によって日本の政治が左右されていた時期だ。日本には舒明や皇極の他に「蘇我」というもう1人の天皇がいたことになる。文武4年の時点におけるもう1人の天皇であった品治の死によって文武政権はようやく盤石になる。
 品治の息子役行者の幼名は「小角」。ソブルと呼ばれていた。意味「鉄砂」「鉄の砂原」「鉄火」。行者は「役の優婆塞」と呼ばれていた。優婆塞とは、在俗の仏教信者の事。「源氏物語」の宇治の帖で侘しい生活を送る優婆塞の宮が登場するが、この人こそ役行者をモデルとした人物ではないかと思われる。桐壺帝の第八皇子、光源氏の異母弟とされている。「優婆」はウパ、「伏せて」「ひっくり返して」の意味。「塞」のソは鉄クは焼く。「うばそく」とは要するにひっくり返して鉄を焼く、ウパソグクの酷似音である。このことから役行者は、在家の仏教信者であり、製鉄関連者でもあったことになる。役行者は唐や新羅に往来して活躍した国際人でもあった。

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