役行者はの父は天日槍の子孫多臣品治。母は素戔嗚の子孫白専女。役行者は日本の国つ神、土着の天皇蘇我氏につらなる名門の御曹司であった。ある年の6月、役行者は大峯を出発伊勢に至り熱田、猿投、峰堂、白峰、富士。足柄、箱根、江島、筑波、浅間岳、御嶽南宮、伊吹、石山、笠置を経て40余日後の8月上旬葛城山に帰る。驚くべきハードスケジュール。これは単なる修業のための霊山、高峰巡りではない。これらの山は全て鉄の山。役行者は日本中の鉄山を一手に掌握、支配していたことになる。
『書紀』の綏靖紀4年の夏4月に神八井命=多臣品治が亡くなり、畝傍山の北に葬ったとある。皇位を狙っているとの讒言により投獄された役行者は簡単に脱獄、逃亡した。そのため母白専女が捕らえられたので、その母を救うため役行者は再び獄についた。翌年の文武4年父多臣品治は亡くなった。畝傍山の北とは、大和高田市奥田を指す。古くから奥田に伝わる「捨篠社の一つ目蛙」という民話がある。役行者の母白専女がある朝、捨篠社に詣でた。池には一茎ニ花の白い蓮が咲いており、葉には金色に光った蛙がいた。白専女が篠萱を引き抜いて蛙に投げると目にあたり蛙は片目になって池に落ち、土色になって浮いてきたという。
金色の蛙すなわち品治を消したのは白専女。息子小角=役行者をすくうために品治を殺した(蛙=かはづ=ガパチ=製鉄場の貴人=品治)。伝説に彩られた役行者だが、実在の人物だったことを確認できる正史資料はただ一つ『続日本紀』だけで、それもたった数行に過ぎない。「文武天皇3年(699)、5月24日、役君小角が伊豆島に流された。小角は葛城山に住み、呪術をよくすると世間の評判であった。従五位下韓国連廣足という者がその能力を妬んで朝廷に讒訴し、そのため役行者が遠島の刑に処せられたのである。」