愛知県豊田市猿投山。サは鉄、ナゲは出し。猿投山は「鉄を出していた山」であり「より多くの鉄が出るように祈りを捧げられた山」である。猿投山の麓にある猿投神社の主祭神は大碓命。大碓は天智の双子の息子の兄。弟の小碓は高市皇子、ヤマトタケルである。大碓は猿投山に登って「蛇毒」で死んだとされている。「蛇毒」はサドゲ、つまり「たたら」を表す言葉である。大碓はたたら場の事故で命を落としたようだ。景行天皇こと天智は大碓の死の事情を調べに行ったものの、猿投山のシマ(鉄の間)は天武側に完全に掌握されていて、やむなく投げる(放棄する)しかなかったのだろう。
現在の豊田市の旧名は挙母(ころも)である。「ころも」は万葉集1-1雄略天皇の歌詞に登場する古い言葉だ。「興毛興呂毛・・・」興毛はゴモ、ゴマつまり狛=高句麗人のこと。興呂毛はゴロモで「おしなべる」「平定する」。つまりコロゴロモで高句麗人が平定したという意味だ。雄略=天武、つまり万葉集1-1は奈良の鉄の間泊瀬を手に入れた狛=天武の即位宣言歌なのだ。挙母も猿投山一体の鉄を巡って、天武と天智が争い天武が勝ったことをあらわす地名だったと思われる。縄文時代豊田の地に何らかの集落があり、弥生時代後期には相当の権力を持つ支配者がいたということは既に判明している。
『古事記』によれば、大碓が朝夕の食前に出てこないので天皇が小碓に「ねんごろに教えよ」と命じた。しかし5日経っても大碓が出てこなかったので小碓にどう教えたのか問うと、大碓が明け方に厠に入った時、捕まえて手足をもぎ取り薦に包んで投げ捨てたと言った、とある。事故に見せかけて殺したのかもしれない。