孝徳天皇は、640年あたりから鳥取県西部一帯(伯耆国)の豊かなシマ(鉄処)を支配していた。皇極天皇の弟、中大兄の叔父と言われているが、孝徳を優遇し、間人と結婚までさせた裏には豊かな鉄があったのではないか。孝徳天皇は、旧伽耶国の地から出立、隠岐島を経て美保湾に入り、鳥取県の日吉津に到着した亡命者だったと推察される。
伯耆国には日野川という川がある。八俣大蛇退治のモデルになった斐伊川と同じく砂鉄の取れる川であった。その流域には楽々福(ささふく)神社とそのゆかりの神社が点在し、孝霊天皇とその一家による鬼退治伝承が伝えられている。日野川上流の山の中にいた「牛鬼」。頭が馬、胴体は牛、足は猿のようだったという。馬の語源は「ウッマル」。ウッマルは山頂や頭領を指す古語。鬼集団のお頭が「牛鬼」で、その山が頂上から麓まで丸ごと牛鬼のものだった。牛の語源は「ウッシ」。ウッシは上等な鉄を意味する。山の胴に当たる山腹に鉄が埋蔵されていたことをもって、胴体は牛になる。足が猿とは、サ=鉄、アル=粒のことで砂鉄を意味する。山麓の日野川辺りがそれこそ砂鉄まみれだった状況を表現したものだろう。一方、足はア=最高の、シ=鉄で、その砂鉄が最高品質だったことも示している。
『日本書紀』においては、1人の天皇の事績が複数の天皇のものに分けて記録されていると思われるので、孝霊=孝徳と考えることができる。孝徳は皇極の弟でなくても同じ伽耶出身者で製鉄王であったと思われる。しかし中大兄と不仲になり、一人難波宮に残されて、失意のうちになくなる。飛鳥に戻った中大兄は、母皇極を重祚させ(史上初)、斉明天皇とする。