和歌山県橋本市隅田八幡神社に古くから所蔵されてきた銅鏡がある。福山敏男は銅鏡に刻まれている「男弟王」を「男大迹(おおどの)」すなわち継体天皇と解釈して、この銅鏡が作られた癸未年を503年とした。日本生まれの斯麻王こと百済の武寧王は先端技術者コンビ開中費直と今州利の2人を日本に派遣した事実を銅鏡に刻み、弟に当たる倭の武王に送ったとみなされる。
503年は日本で本格的に製鉄がスタートした年で、鉄資源に恵まれた倭は農耕と製鉄を飛躍的に発展させた。503年はまた新羅系の技術者集団が三輪に進出した年でもある。奈良盆地で百済と新羅のシマベ(鉄の輩)は鉢合わせすることになる。この対立は鉄の王国伽耶を巡る葛藤へと発展、長く熾烈な韓半島の本土戦に向かっていく。503年はその起点なのである。倭の鉄づくりを一手に管轄するために、武寧王は斯我(サア)王子を派遣したが、政権交代の煽りを受け、斯我一族は紀ノ川の北岸高野山の登山口にあたる隅田界隈から動けないでいたのではないか。
天皇即位前の光仁が高野新笠と結婚したのも鉄づくり集団との連携に魅力を感じてのことだったかもしれない。「后出自、百済武寧王の子淳陀太子」と皇太后高野新笠(桓武天皇の母)の伝にある。光仁(桓武天皇の父)の父志貴皇子は文武天皇の娘婿で近江の鉄穴を下賜されていた。
中世の武士集団「隅田党」。葛原氏が有力氏族であるが、葛原氏は「固め屋」つまり製鉄技術者一門を表す名字で、はからずも隅田の輩は「シマベ」つまり製鉄集団だったことがわかる。
武寧王とその王妃の木棺に用いられた木は高野槇である。高野槇は非常に硬く、湿気に強く、香りも高い。最高級の木材として有名である。しかもその断面は一条の念珠を連ねたように美しい紋様を見せる。このような組織の木は世界に高野槇以外にないという。しかも武寧王の木棺には直径130センチ、重さ3・6トン、樹齢300年を超える巨木が用いられていた。高野山麓隅田一帯に定住していた斯我の子が「日本生まれ」の祖父に愛を込めて日本から送った切ない贈り物だった。