100 持統は兄多臣品治に高市を葬らせた

2024年05月16日 19:32

白玉の時代が始まった

 持統10年(696)7月10日、高市皇子(すなわち持統天皇)が亡くなる。不審な記述が高市死亡のすぐ後に見える。持統皇后の兄多臣品治に高い位と贈り物が与えられた。多臣品治は多臣蒋敷の息子。古事記撰者の太安麻呂の父または祖父との言い伝えもある。「多臣品治は神武皇子神八井耳命の後孫で多神社に祀られている」と書紀上段注に書かれている。綏靖天皇は天武天皇のもう一つの顔である。綏靖紀によると神八井耳命は綏靖の兄。庶兄手研耳命(天智)を射殺する弟を戦慄して見守っていた神八井耳命が多臣品治のもう一つの顔である。
 高市皇子のもう一つの顔は日本尊命(ヤマトタケルノミコト)、その末年の苦難にあふれる「東征」こそ、高市殺しを暗示するものではないか。高市は天皇としての東国巡行を強要され、その道中で病を得、ついに命を落とす事態に至ったのであろう。東国は当時新羅、高句麗勢で固められていた。百済系の高市には手の負えない状況だったのだ。そして待ちに待った白玉つまり新羅の文武王の時代が、ここにスタートすることになったのだ。
 韓半島の三国統一を成し遂げた英雄で、天武の長子とはいえ、朝鮮の文武大王がすんなりと日本の天皇になれる時代ではもはやなかった。文武が日本に亡命したのは681年、それから15年経った696年やっと文武即位にこぎつけたのは、ひとえに持統の政治力によるものといえよう。天武の子大津、草壁そして天智の子高市という反文武勢力を次々に葬り去り、実に雌伏15年ついに愛人を天皇にした持統の深謀遠慮。そして71歳の高齢で天皇位についた文武の比類なき政治力によって奈良、平安時代のスタートとなる律令政治が確立するのだ。

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