99 天武天皇暗殺

2024年05月16日 10:06

天武11(682)年8月3日夜

 天武11(682)年8月3日夜、天武は反乱軍蜂起の報に接し飛鳥を脱出、美濃を経て敦賀に入る。そこから渤海に渡ろうとしたのだろう。しかし待ち伏せしていた高市皇子一派によって天武は暗殺された。682年9月10日の天武の死は極秘にされた。
 683年正月2日対極殿で宴(とよのあかり=オールナイトパーティー)が行われた。2月1日大津皇子が初の朝政を執る。天武3年(684)11月21日文武法敏に危機が訪れるが脱する。686年5月24日天武の発病が公式に発表される。これに先立つ686年正月、文武と持統の娘多紀皇女が生まれる。もちろん表向きは天武の末娘とされる。持統42歳、文武61歳。多紀=當耆=60歳にあたりの意。ダンギは髪に結ぶ長い装飾用のリボンのこと。このダンギが日本語の滝になった。686年9月11日から30日にかけて天武の葬儀が荘厳に行われた。そのすぐ後、686年10月2日に謀反の疑いで大津皇子が逮捕された。なんと翌日の3日には処刑。草壁はその3年後に消える。突然の死だった。
 文武が蟄居する吉野への、持統のいわゆる「吉野通い」が始まるのは689年正月18日から。これを厳しく批判し、文武との精算を迫ったものか、草壁はその2ヶ月後に殺されている。草壁の死に対する反発を抑えるために持統は高市を天皇に立て、危機突破に成功する。
 持統の「吉野通い」33回に対する今までの解釈は「天武の温もりが恋しかったのか、力を借りたかったのか、吉野行きは不可欠のものだった。文武天皇が即位してからはぴたりと止まっている。」天武を文武と言い換えればこの解釈は当たっている。

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