98 宇佐八幡宮

2024年05月10日 19:07

宇佐八幡宮で草薙の剣に祭祀を捧げた

 草薙の剣への祭祀が行われたのは九州大分県の宇佐。忠元こと新羅文武大王の日本訪問の記述の後に、土佐大神が神刀(怪しき太刀)一口を天皇に奉ったという記述がある。道行が草薙の剣を盗んで、新羅に帰る途中暴風雨に遭って日本に「迷い帰る」が、その船がついた海岸が土佐ではなかったか。草薙の剣が668年から675年までの6年3ヶ月もの間、辺鄙な土佐の地にそのまま保管されてきたのは、「神刀」に当時の権力者たちが恐れをなしていたからではないか。
 草薙の剣への祭祀が行われたのは九州大分県の宇佐。「ウサ」は「上質の鉄」または「尊い鉄」を表す。宇佐神宮の主祭神は応神天皇と神功皇后すなわち文武天皇と持統皇后。持統は当時宇佐にまで足を伸ばして文武とあっているのだ。そして2人は草薙の剣への祭祀を取り行った。
 675年9月、20万もの唐の大軍を新羅は徹底的に撃退。翌年2月、新羅は遂に韓半島から新羅を駆逐することに成功した。日本からの支援軍が帰国したのもこの2月である。渋る天武を説得、新羅支援を強行した持統は「おんどりになっためんどり」と批判されている。文武は百済や高句麗を倒して韓半島を統一するために唐と手を組んだが、本来は徹底した反唐主義者だった。
 韓半島から撤退した唐は、国内を撹乱する戦法に出る。新羅では文武大王の息子神文王の舅である金欽突が謀反を起こすことになるし、日本では高市皇子をそそのかして天武天皇を暗殺させることになる。しかし文武は金欽突のクーデターを事前に察知、自身は死んだことにして日本に亡命し、神文王を即位させて速やかにクーデターを鎮圧した。

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