668年に姿を消した金庾信の長男三光が再登場するのが683年。文武王の長男神文王が再婚するにあたり王妃を選ぶ婚儀を采配している。実に15年ぶりの華やかな再登場だ。三光はその間何をしていたのだろうか。もしや道行という名の僧侶に変装して日本に渡り、金官伽耶の宝剣を取り戻そうとして失敗、囚人生活を余儀なくされていたのではなかったか。
681年、新羅文武大王は日本に亡命する。大王の上陸地点とみなされる志摩半島と、道行が法海寺を建立した愛知県知多市は伊勢湾を隔てて相対する位置にある。海路で行けば目と鼻の先だ。681年の時点で道行はすでに釈放され、法海寺を中心に活躍していたものと思われる。道行と三光が同一人物とすれば法海寺の名の根拠が突然現れてくる。新羅文武大王の幼名は法敏(ホムビン)、天武の即位前の名前は大海人(おおあま)。両者から一字ずつとると法海寺となる。道行=三光は、文武と天武のための薬師如来を本尊とする大伽藍を建てたのだ。東西両塔を備えた大伽藍が日本と新羅に相次ぎ建てられて行く。東塔は日本、西塔は新羅を象徴している。
法海寺は現在も愛知県知多市八幡平井24にあり、地元では「寺本のお薬師さん」として親しまれている。天台宗薬王山法海寺は、知多半島では唯一、寺院跡の遺構が確認されている古刹であり、周辺の条理制遺構の存在や、古代遺構を背景に立地しており、寺院の縁起に天智、天武の御代に草薙の剣を盗み出した新羅の法師が失敗し囚われて幽閉されたとある。僧道行はこの地で持念修法して霊感を得、薬師祈願をし、その功により勅願と寺領を賜った。