91 新羅文武大王は、誉田=文武天皇である

2024年05月04日 14:21

神功皇后が筑紫で産んだ子誉田(ほむた)

 『日本書紀』の神功皇后紀はその大半が皇后の「新羅征伐」と、皇后が筑紫で産んだ皇子誉田(ほむた)を殺そうとするその「兄たちとの戦い」に関する記述で埋められている。
 新羅の文武大王が死んだとされるのは681年陰暦7月1日。即刻その長子の神文王が王位を継承した。同年8月8日、高位官僚の欽欽突(キム・フンドル)らが謀反のかどで処刑されている。当時の日本天皇は天武、実は高句麗の大将軍淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)で、新羅文武大王の父である。新羅に親唐クーデターが起こったと聞いて天武が黙っているはずはない。
 ① 文武を安全に新羅から脱出させ、日本に避難させること。
 ② 新羅の親唐反乱軍を外部から威嚇すること。
 ③ 唐の反乱支援軍の接近を遮断すること。
 日本がとったこの作戦が「新羅征伐」として神功皇后紀に秘められているのではないか。新羅への玄関口にあたる玄界灘に日本軍が集結したことを「新羅征伐」としたと思われる。対馬にやたらとある神功皇后伝説、伝承、遺跡はこのことを物語る。

 『日本書紀』より抜粋
 安曇・胸形・宇佐それに朝廷軍の船を合計すると大小400の大船団である。皇后は皇石(おおいし)神社のある鹿部山の頂上から訓練を視察し、倭国を誇らしく思った。同時に今回の朝鮮半島進出は、国家の発展と平和を築く第一歩であり、その使命の重さを改めて強く思った。・・・皇后は、朝鮮半島進出の覚悟を全兵士に伝えるために男装することを決めた。出陣式で皇后の男装姿を見た兵士たちからオーッという地響きのようなどよめきが起こった。

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