九州の宮崎県東臼杵郡南郷村「百済の里」。660年百済滅亡の後、百済の王族一族が亡命したとされている村である。禎嘉王一族は百済から二艘の船に分乗、しけに襲われ、一艘は日向国金ヶ浜、もう一艘は蚊口浦に漂着した。二つの集団は一族絶滅の悲劇を避けようと以後別々に行動する。しかし禎嘉王一族は壬申の乱にあたり殺害された。天智のバックである在日百済王家直系の者たちを徹底的に潰そうとした天武によってあえなく最後を迎えたのであろう。天武と側近の軍勢は禎嘉王一族を掃討した後、小丸川から耳川へと下り、美々津から船出し、飛鳥に凱旋したと想定される。
悲劇の最後を迎えるまで、師走の14日から21日にかけて父王を息子が訪問している。祭祀をするためだったと思われる。現在も比木神社と神門(みかど)神社合同のお祭り「師走走り」が毎年行われている。比木の神を神門の婦人たちは村外れまで送り、「サラバー」「オーサラバー」と何回も叫ぶ。「さらば」は単なる暇乞いの挨拶ではなく、切実な別れの絶叫であり、「生きてまた会おう」という重い意味を持つ言葉だったのである。
「師走走り」は旧暦12月14日から16日まで、比木神社の一行が延々23里に及ぶ決まりの道を神門神社(現宮崎県美郷町南郷区)まで巡行し、そこに滞在して帰る全国的にも極めて珍しい形式の祭りである。それは異国神(百済王の一族)がこの地に定着したという伝説を語り継ぐもので、一行が帰路につく「下りまし」の際にはオサラバと称してヘグロ(墨)を顔に塗り、笊などを振って送る慣わしも見られる。