80 万葉集は古代韓国語で詠まれている

2024年04月20日 12:29

万葉集は全文漢字で厳格に詠まれている

 万葉集の中でも、もっとも有名で、わずか14文字の最短の歌。
  柿本人麻呂作1-48  「東野炎立所見而反見為者月西渡」
      夜明けの星を数えていたら、明け空に草壁皇子のお姿を
      見かけ、あぁ嬉しいと思っていると、皇子は私にお気づ
      きになり頷かれ、そして消えていった。
 人麻呂は持統の息子草壁皇子の舎人だったと言われている。この歌の広大なイメージ、完璧な構図。草壁皇子の別名は日並知皇子。暁の空には日の出あり、残月あり、明星ありで、まさに日を並べるという日並知を連想させる。草壁皇子は暁皇子である。草壁も暁もピッタリ同音の「セビョク」。万葉集の漢字表記=万葉仮名はまことに厳格で、根拠のない書き方は一字たりともされていない。万葉人は各自の誇りにかけ、学識と精魂を傾けて歌を詠んでいた。
 崔在錫(チェ・ジュソク)氏は、古代日本に渡来した海外移住者のうち絶対多数を占めていたのは百済人であるとし、その第一の集団渡来の波は403年から409年の6年間(396年、百済は高句麗の広開土王によってほとんど壊滅に瀕した)に、第二の波は665年から669年の4年間(百済は660年、高句麗は668年、新羅と唐の連合軍により滅亡した)に押し寄せたと論証した。万葉集が詠み始められたのはこの第一の波の直後から、また万葉集が集中的に詠まれたのは第二の波の前後だった。20万とも推定される渡来人たちは王族、高官、学者、芸術家、軍人はじめ先端技術を有するエリートたちで、彼らは当然言葉と文字を日本に持ち込んだ。万葉集が古代韓国語で詠まれたのは疑問の余地がない。そして柿本人麻呂や額田王などバイリンガルは、表読み裏読みで日本語と韓国語を使い分け、さらには暗号も嵌め込んで、だまし絵のような歌を詠んだ。それにまんまと引っかかって、私たちは訳のわからない解釈を信じ込むことになる。
 柿本人麻呂はわずか14文字のうたのなかに「日・月・星・辰」をずらりと並べて象嵌し、「日並知」を表現している。「紅・東・白・西」と称される韓国古来の祭祀の御膳立て法になぞらえることができる漢字の並べ方。祭祀は暁前の夜中に北に向かって行われる。両端に立てる蝋燭の炎を連想させるために「炎」という字を採用した念の入れ方に驚嘆する。

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