新羅の金庾信将軍は、日本に亡命した甥の新羅文武大王を助けるため、長男の三光と次男元述を日本に遣わした。三光は知多半島に法海寺を建てた僧として行動する。元述は天武天皇の息子長皇子として製鉄を行い文武を助けた。文武の日本亡命を阻止しようとした天武の息子たち(大津、草壁、高市=実は天智の息子だが天武と親子の契りを結んだ)は、筑紫に上陸した文武を瀬戸内海で阻もうとしたので、文武は知多半島に上陸するべく鳴門海峡を通った。しかし志摩半島大王崎付近で台風のため遭難、新羅系の住民に救出された。その時のことは「わらじ曳き祭り」として今日まで再現されている。
文武は天武の長男だったため「御子様」という意味でアゴ様と呼ばれていた。文武が救出された地域には、英虞湾、阿児町、大王町、大王崎、大王島と文武大王にちなんだ地名が目白押しである。文武は天皇になってから持統と共に行幸し、住民にたっぷり感謝の贈り物をしている。日本は残す国である。祭祀の言葉の意味がわからなくなってもその祭りは絶やさない。そこから古代の真実が掘り出されるのだ。
「わらじ曳き祭り」は三重県志摩市大王町波切の波切神社で行われる祭り。本祭の前日に作られた縦2メートル、横1メートルの大わらじは神社拝殿に安置され、その後奉納される。地域の若者に担がれた大わらじは、須場の浜で神職のお祓いを受けた後、担がれて海に入り、沖で漁船に渡す。漁船でさらに沖へ曳かれた大わらじは大王島付近で放たれる。当地の伝説の鬼「ダンダラボッチ」は台風を意味していると言われている。