天日矛とは、記紀に見える新羅王子。書紀によれば垂仁天皇3年に渡来、兵庫県の但馬の出石に住み、土着の豪族太耳の娘麻多鳥と結婚した。この天日矛の子孫が蘇我氏一族の多臣品治である。濊系の朝鮮人で、濊は八、夜、矢などの文字で表される。
神武東征の際、熊野から大和へと神武の道案内をしたとされる八咫烏は品治のことと思われる。品治は神武=天武天皇の皇后である持統の兄であり天武の右腕となって壬申の乱を戦った。
朝鮮の史書『三国遺事』に現れる新羅の阿達羅王4年(157年)の説話に、延烏郎(ヨン・ヲゥラン)とその妻細烏女(セオニョ)夫婦の説話がある。新羅の迎日湾(現韓国浦項市)から夫婦で日本に渡ったため、新羅の日と月の光が失われ、王が帰国を要請したが、日本で王になったことを天命として帰国を拒み、代わりに細烏女の織った絹の織物を与え、それで天を祀ったところ、日と月の輝きがもとにもどったという記事がある。また別の記事によると、幸魂・奇魂の製鉄・鍛治の二人組が新羅での製鉄活動を禁止させられたため来日し、大和の三輪山で製鉄を行ったという記述があり、製鉄技術者が新羅から続々と日本にやって来ていたことが窺える。
世界で初めて製鉄を行ったのはオリエントのヒッタイト王国で、中国では春秋・戦国時代に初めて鉄製農具が使われたという事は世界史の教科書に出てくるが、その最先端技術が日本にいつ、どのようにして伝わったかということは日本史の教科書には出てこない。多臣品治は蘇我氏(石川氏)の一族であるが、豪族の蘇我氏が天皇級の権力を握ったのは、鉄を把握したからで「ソ=鉄、ガ=磨く」という名前がそれを示している。また中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺し蘇我蝦夷を自害させた大化の改新(乙巳の変)は、鉄を奪い権力を奪取するための政変であった。