『日本書紀』の神功皇后は持統を投影した人物。したがって持統はあくまでも皇后であって天皇にはなっていない。常に神功皇后に影のように寄り添っていた武内宿禰は高市皇子を投影している。天武暗殺を主導した天智の息子高市皇子又の名は双子の弟小碓、即ちヤマトタケルである。高市皇子は大津皇子、草壁王子と次々に殺して天皇位に上った。
しかし最後は高市も殺され、697年文武71歳が即位した。持統なくして文武はない。濊系の製鉄場(シマ)を支配する鉄のお姫様、持統こそ古代日本の立役者と言えるだろう。そして神功皇后の謎の新羅征伐は、文武の息子神文王の舅金欽突の親唐クーデターを鎮圧するために日本から軍隊を送ったことをいうのだろう。天武の反対を押し切り、文武のために行動した持統の姿が男装した神功皇后の姿として書紀に描かれているのだ。
中国唐王朝の征服欲は限りなく三代高宗さらに高宗の妻則天武后時代に至っても、韓半島、日本列島を支配しようとする動きは続く。統一新羅を支配するべく、金欽突を利用して内部撹乱のクーデターを画策した唐の野望は持統の「新羅征伐」の決断で頓挫したと言えるだろう。
文武天皇は15歳で即位し、25歳で夭折した持統の孫として知られている。孫のように文武を溺愛した持統、雌伏15年で即位し、10年の統治で日本の古代律令制を確立して亡くなった文武。15歳で即位、10年の治世の末、25歳で死んだ持統の孫文武天皇という『日本書紀』の「事実」と見事に一致する。日本書紀のファクション(事実+虚構)の妙技にはつくづく感心させられる。