いくら三韓統一の英雄といえども、またいくら国際政治家ヨン・ゲソムン=天武天皇の長子といえども、もはや日本に亡命してすぐ即位という時代ではなかった。亡命時、文武は56歳。そこから15年雌伏してやっと天皇に即位する。そして即位して10年後、文武は707年82歳で死去する。なんと長命だったことよと驚かされる。
雌伏15年のうち、689年から696年までの7年間、文武は吉野落ちしている。その間、文武は64歳から71歳、持統皇后は45歳から52歳。飛鳥から吉野まで、持統はお供を引き連れて31回も吉野通いをしている。
文武は新羅の浮気者と言われているように、女性関係が派手で、手当たり次第の感さえあるが唯一持統だけは一生愛し続けた。なぜならまさに持統あっての文武だったからである。舎人皇子に続いて文武60歳、持統41歳の時多紀皇女が生まれる。685年のその時、すでに天武は暗殺されていたが、その死を秘して多紀は文武の末娘ということになっている。
持統は多紀に帝王教育を施すが、多紀は17歳の時高安王(県犬養三千代と文武天皇との息子、多紀にとって異母兄)と恋に落ち、のちの道鏡を産む。これを知った持統は烈火の如く怒るが時すでに遅し。そのストレスで持統は失意のうちに命を落とす。702年58歳だった。稀代の女性政治家持統も娘には勝てなかったのだ。