大化の改新ではタッグを組んだ大海人と中大兄だったが、次第に対立していく。伽耶系百済の貴族大佐平の沙宅智積だった製鉄豪族藤原鎌足も、白村江の戦いに大敗した中大兄に見切りをつけ、大海人に接近、ついに鹿狩りを口実に天智暗殺に踏み切る。持統の兄、多臣品治が天智を殺害する手筈だったが、臆して手が震え、やむなく大海人が手を下した。その騒乱の最中、鎌足が落馬し脊椎損傷の大怪我を負う。鎌足は下半身付随の寝たきり状態から合併症を起こし半年後に死亡した。
天智は即死せず、「青にやられた」と言い残して絶命、倭皇后がその証言を歌にして、万葉集がそれを収録している。「青といえば大海人」。当時は誰でもそのことを知っていた。
万葉集1-28 倭皇后作
「青にやられた」遺言なさる上様を見つけ籠を止めお乗せしましたが、すぐ息をお引き取りになりました。誠にお可哀想でした。
戦前の京都大学考古学チームが、ミイラ化した老人男性の遺体を発見(阿武山古墳)、宮内庁の命令で極秘のうちに埋め戻したが、その際レントゲン写真を撮って記録した。戦後そのフィルムが発見された。その所見を記録した医師は「疾走する馬から落ちたのではないか」と推察、日本書紀の記録と照らし合わせて「山科野の鹿狩り」の時に落馬事故があったのではないかとまで言い当てている。
※毎日新聞
2024/10/30 22:14(最終更新 10/31 18:18)
やはり鎌足の墓だった? 出土冠に「大織冠」の特徴 阿武山古墳
牟田口章人客員教授が復元した大織冠。帽子部分の詳しい文様は不明だが、花の刺しゅうや縁部分は精密に再現できているという=帝塚山大提供
1934年に大阪府高槻市の阿武山古墳で出土した冠に、大化の改新で定められた最高位の冠「大織冠」の特徴があることが専門家の研究で判明した。出土当時のX線写真の解析で、「綴織(つづれおり)」という特徴的な織り方の生地を使っていたことが分かった。歴史上、大織冠は国内では藤原鎌足(614~669)にしか授与されていないため、被葬者を鎌足とする通説がより確実になった。復元した大織冠の画像などは11月2日に帝塚山大である公開講座で初公開される。