古代の韓半島の北に高句麗を建国したのは狛族の朱蒙(チュモン)。その年上の莫大な富を持つ妻が召西奴(ソソノ)である。チュモンは前妻の子瑠璃(ユリ)に高句麗を継がせたのでソソノはチュモンと別れ、韓半島を南下、ソソノの前夫の子温祚(オンジョ)は百済を建国した。もう一人の息子沸流(ピリュ)は現在の仁川にミチュホルを建国。しかし程なくしてピリュは木を求めて日本に渡来、日本もミチュホル=瑞穂の国と名付けた。ピリュは日本神話でいう素戔嗚(スサノウ)でソソノという母の名を名乗っている。高句麗・百済は狛系の国、そして新羅は濊系の国である。南部の伽耶諸国も濊系だが伽耶諸国は遂に統一することなく、562年の大伽耶滅亡をもって地上から消えた。伽耶諸国の王族と貴族は百済と新羅にそれぞれ臣従した。濊系と狛系は時代と共に混血を重ねた。混血をヤサカ=八坂という。八坂神社は日本全国にある。
7世紀の百済に政変があり 伽耶系の百済の王族、武王(641年没)=舒明天皇と沙宅(サテク)妃=斉明天皇、皇極天皇。そしてかれらの息子翹岐(ヒョーギ)=中大兄皇子=天智。天智の双子の妹間人皇女、天智の異母妹鏡王女、斉明のブレーン額田王らが日本に亡命した。武王、沙宅妃、翹岐がすぐ日本の天皇や皇子になれるということは7世紀の日本=伽耶系百済ということになる。しかしその後壬申の乱で狛系である高句麗人天武天皇が日本を支配した。そして天武天皇は暗殺され、天智の息子である高市皇子が天皇となり伽耶系百済が復活、しかしそれも束の間天武の長男文武天皇が即位したため日本の覇権は再び狛族に移り、濊系は律令制確立の中で賎民化していく。日本の七世紀は韓半島との関係が色濃く残る激動の時代であった。