77 白村江の戦い

2024年04月19日 14:00

二日間の海戦で敗北を喫する

 百済は、新羅と唐の連合軍によって660年事実上滅亡した。中大兄皇子はかつての新羅皇子の翹岐。当時の日本の国力を傾け水軍を百済に送り込み、捲土重来を図るが、その努力も虚しく663年百済はついに歴史から姿を消す。いわゆる白村江の戦いである。その敗北の責任は当然中大兄に向けられる。それは日本での覇権を虎視眈々と狙っていた大海人の思うつぼだった。
 中大兄=天智は667年3月19日近江に遷都する大和地方の豪族(旧勢力)から離脱して親政を行おうという意思を貫いたのである。近江にかかる枕詞に「神楽波乃」がある。これは「シンラミネ(新羅押し出す・新羅押し寄せる)」の意。近江が対新羅用の要塞地であったことを表す修辞である。「楽波乃」は、「ナクナンネ」とよまれ(水がたっぷり、水が豊かだ)の意味である。
 白村江の戦い
白村江は朝鮮半島南西部を流れる錦江の呼称。660年、百済は唐・新羅連合軍の攻撃を受けて、王城は陥落し、国王は唐に連れ去られ、実質的に滅亡したが、その遺臣たちは当時日本に滞在していた百済王子豊璋を新国王に推戴することによる王家再興を要請した。中大兄を中心とする日本の支配層は、総勢2万7千人の軍隊を朝鮮半島に派遣した。三軍の将は上毛の稚子・巨勢訳語・阿倍比羅夫。劉仁軌率いる170艘の唐水軍をと対戦し、二日間の海戦で大敗を喫した。

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